瞑想とは何か 瞑想の可能性と現実

理想の瞑想の流れ
瞑想をする時、瞑想状態に入る大前提が存在します。
効果を期待するから瞑想状態に入ることが大事だと知っていますし、そうなりたいからわざわざ瞑想をやるわけです。
しかし、そこが大きな罠です。
常に自分の状況をチェックして、判断する心理が働いてしまうのです。
無理にやることで、心に緊張が走り、肉体にも緊張が拡大し、落ち着けなくなります。
一切を受け入れられない心身の状態になりながら、瞑想を続けるわけで、これでは超瞑想状態に行く前に雑念の海でのたうち回ることになりかねません。
雑念ほど苦しいものはありません。
雑念そのものに罪はありません。
雑念が苦しいのは消そうと頑張る割に、集中力がなくなり、雑念にもっと襲われるからです。
動と静 理想のリズムにはまった瞑想はとても気持ちいい
瞑想は判断するものではありません。
ただ起きたことを受け入れ、ひたすらどこまでも徹底して感じることです。
ありのままを受け止め、全感覚を研ぎ澄ませ、感覚のまま身を委ねることです。
これが理想の瞑想のリズムだと思います。
そこに動も静もありません。
静こそ瞑想だという誤解がありますが、超瞑想状態には動からでも作れます。
また静を追求して、動に至ることもありますし、動を追求してこその静のすごさがあります。
どちらもすごい感覚で、超瞑想状態に入ったとき、静と動が同時に究極に味わえます。
これはすごい体験です。
表裏一体なんだと心で理解できます。
(関連記事)覚醒瞑想状態の効果と凄味

瞑想は自分のみの世界。他者と比較して落ち込んだり焦っていませんか?
深い瞑想状態にみんな入りたいと思っています。
しかし、自分だけはうまくいっていないと思っていませんか?
瞑想の合宿やセミナー(スピリチュアルなもの、本格的なヨガや禅の合宿も含む)を受けた人はわかると思いますが、みんなから取り残された感覚になることがあります。
みんなすごい瞑想状態に入って違う世界に浸りきっているのに、自分だけは雑念だらけで、焦れば焦るほど醒めていく、なぜ? とジリジリしながら瞑想をしているという経験者は多いでしょう。
かくいう私もそうでした。
みんな目を閉じたり半眼で瞑想状態に入り込んでいるように思います。
瞑想合宿やセミナー中、他人と比較して落ち込む
中には感受性が強い人がいて、勝手に強い変性意識状態に入り込んで、急にわめき出すということが何度か経験しました。
そうなると、他の次に感受性の強い人達が、神がかったように湧き出したり、踊り狂ったり、閉鎖空間にもかかわらず外に飛び出していくこともありました。
それに当時の私は圧倒されました。
そして自分を卑下しました。
情けない人間だと思いました。
雑念だらけの自分に比べ、彼女らはすごい。
ああはなりたくはないけれども、ああなりたいと思いました。
(しかし、瞑想の危険性でよく言われる瞑想の魔境に入った人たちだと後にわかりました。あの状態になったら、誰か錯乱状態を落ち着かせる強力な指導者がいないといけません。暴発したままでは心の抑圧は解消できないのです)
また瞑想合宿の効果を他の参加者と話した時、誰も私のような雑念だらけの人間とは違って、心が落ち着いた、心機一転できた、疲れが取れたという感想を述べられ、ますます自己嫌悪に陥ったものでした。
瞑想は他人と比べてはいけないことは知識ではわかっていたものの、効果を味わえない自分への自己嫌悪感が増す現実に、心が折れかけました。
私は何のために瞑想合宿に参加したのだろう。
彼らのいうように効果を得るためではないのかと悶々と考え込んでしまいました。
雑念だらけ私でも、外面だけは一丁前で、合宿参加者から尊敬されていた
しかし、他の瞑想合宿参加者が言うには、私が何を隠そう、感受性が暴発したグループに比べ、私が一番落ち着いて静寂の中で漂っていた人間だとのことでした。
「えっ?」とびっくりしました。
そういう私を尊敬してみていたという人もいました。
私はひたすら動かないように瞑想をしていたのですが、内心は本当に苦しくてたまりませんでした。
瞑想の効果をある程度実感してきた私ですが、その時の瞑想合宿は本当にうまくいかなかったのですが、瞑想をする佇まいだけは一流でした(笑。笑えないですが・・・)。
そうか、瞑想は主観的なもので、外見から瞑想状態を推し量れるものではないと思い知りました。
瞑想をやる本人がどう思うか、この主観的な世界こそが瞑想だということです。
その主観的な世界に徹底的に入り込んでいくことが、超瞑想状態なのだと学ぶことができました。
外見やポーズからでは、いくら見栄えが良くても、様になっていても、何の意味がないということです。
ヨガとは瞑想状態に入るために自然と動くように進化していった
そう言えば、ヨガは理想の瞑想状態に入るために、動きを取り入れるようになり、あのオリジナリティあふれるポーズや動きに至ったそうです。
先人たちの経験値の集積には頭が下がる思いですが、別に動かずに座禅をしたからと言って、ヨガをしたからと言って、主観的な感覚が変性していかなければポーズも意味がないのです。
瞑想は外見ではありません。
超越瞑想やヴィパッサナー瞑想、サマタ瞑想など理想の型にのっとり、瞑想をしたとしても、誰もが超瞑想状態の効果を実感できるわけではないのです。
現に、ヨガのポーズは、瞑想から独立して、それ単体がストレス解消法、健康、運動、ストレッチの一大派閥になっています。
本格的なヨガは別として、ほとんどのヨガはフィットネス感覚に進化(?)しています。
今やヨガをして超瞑想状態に入る人はほとんどいません。
とはいえヨガは、医師の立場から見ても、非常に健康に良く、体が芯から緩みますので毎日欠かさずやると、心身ともにいいことが起きます。
それは瞑想をする前にヨガの準備体操をすることで、瞑想本体もうまくいくようになります。
瞑想の指導者は実は見せかけのポーズだけではないのか? 知識だけの存在ではないのか?
私のような落ちこぼれ瞑想人間でも、目を閉じて動かずにいれば、他の人から見たら瞑想状態に完全に入り込んでいると思われていたように、私が立派だと思っていた瞑想指導者が、私のように雑念だらけだったらと思うと、瞑想ってなんなんだろうと疑念が湧いてきました。
したり顔で瞑想を指導している人、風格は立派で瞑想について深い解釈と教えをしている指導者、彼らはとてもすごそうに思えてしまいます。
しかし、案外見せかけだけで、超瞑想状態に入っているわけではないことをまず言っておきたいと思います。
瞑想は見せかけだけで、結構何とかなる世界なのです。
中には本物はいるでしょう。
しかし、これだけ瞑想やマインドフルネスを教える人が多いとなりますと、その比率は糸魚川の海岸の砂浜から翡翠を見つけ出すぐらいの数しかいないのではないか?
人間は外見にすぐ騙されます。
ショーンKというコメンテーター、コンサルタントがいました。
学歴を詐称し大げさに飾り立て、風貌だけは立派でダンディでやり手に思えさせて(これも一つの才能である意味尊敬しています)、中身は全くスカスカだったという騒動がありました。
この騒動はグーグルで検索すればたくさん出てきます。
これと同じことが瞑想にも起きます。
私達は瞑想指導者の外見に騙されます。
霊験あらたかそうなお坊さん、神秘的で立派で彫りの深いインドの方などは特に、刷り込みで「すごそう、できそう、たくさん知っていそう」と思ってしまいます。
一般の人でも、目を閉じ、ピシッと座禅をしている姿を見たら、「この人はすごい無我の境地の達しているに違いない」と思いやすいのです。
フロー状態に入っている、変性意識状態に浸っている、あちらの世界で漂っていると勝手に思い込んでしまいます。
しかし、焦る必要はありません。
所詮は外見だけの見せかけです。
そこに瞑想とは、悟りとは、禅の心とは何たるかを、あたかもショーンKのように語ると、さらに本物に思えてしまいます。
世界中の精神世界の旅をしてきた富裕層の女性を話した時、結局どの指導者もグルも俗物人間が多く、その本性を知ったら、別の合宿に参加しその繰り返しだったと言っていました。
指導者がみんな俗物だという意味ではなく、本物もいます。
ただし、瞑想はお金になるぐらい需要があり、そこに供給が発生するのだということでしょう。
だからこそ、瞑想指導者の外見だけに騙されてはいけません。
案外、俗物だったり、参加者並の瞑想状態しか味わっていないのかもしれません。
この人は本物の超瞑想状態を味わっていると見抜くポイント
誰も心の中なんてぱっと見ではわかりません。
しかし、本当に瞑想状態に入り込んでいるか、わかる方法もあります。
注意深く観察していたら、まぶたを閉じている人でも、眼球運動で、理想的な変性意識状態に入り込んでいる、脳内麻薬が全身を駆け巡って恍惚状態になっているとわかるようになります。
(これは覚醒瞑想誘導技術を開発した岩波先生に教えてもらいました。実際に最高の超瞑想状態に入った人の眼球運動は明らかに違っています。先生は一瞬でその人の深さや質の種類もわかるそうです)
「目は口ほどに物を言う」「目は心の鏡」という格言がありますが、まぶたを閉じてまだ間を見ることができなくても、眼球運動はわかります。
眼球運動を見抜くにも訓練と経験値は必要ですが、やはり眼は嘘をつけないものなのですね。
また表情も重要なポイントです。
厳しい顔をして座禅をしていたとしても、それはフロー状態やゾーンに入った状態になれているわけではなく、雑念と戦って必死で集中しようとしているから厳しい顔になっているのかもしれません。
超瞑想状態に入ったら、とにかく気持ちいい状態がずっと続いて、それがどんどん再生産されて内側から出てきます(脳内麻薬や神経伝達物質が脳内や全身を駆け巡ります)。
そうなると表情が緩みます。
別人のようになり、恍惚感に浸っているわけだから、厳しい表情のままでいるはずがありません。
別に厳しい顔をしているから、この人は雑念だらけだということではなく、恍惚感や多幸感に包まれた人の表情は、険しい顔のままではいられないということを言いたいのです。
瞑想は徹底的主観の世界。他人と比べるからうまくいかない。過去の自分と比べてもいけない
だから、瞑想に裏切られないためにも、瞑想の指導者の見せかけのポーズに騙されないためにも、案外人は大層瞑想状態に入っていそうでも、内心はそうではないということを知っておいてください。
つまり、人と比べても惑わされるだけです。
瞑想は主観的なものです。
比較したら瞑想ではありません。
またかつて瞑想がうまくいっていた人ほど、過去の瞑想状態の効果を現在を比べ、「あのころはよかったのにどうして?」という戸惑いにつながりやすいです。
ここでも比べることは無意味です。
瞑想とは絶対感であり、自分の内面に徹底的に入り込んでいくもので、他者がどうということは全く介在する余地がありません。
自分の内面は、底が見えないぐらい深いです。
ある意味宇宙とつながっており、宇宙空間並みの広さと深さを有しています。
そこに神秘性も可能性もたくさんつまっています。
そして本当の自分という存在にも出会えます。
瞑想セミナーや合宿では他者との比較は無用です。
自分だけの世界を追求してみてください。

抑圧された感情はいつか抑えきれなくなる
人間は物心つく頃から今まで生きてきたら、多くの抑圧された悪い感情を抱えて生きていることになります。
それが性格や個性を形作るのですが、潜在意識に抑圧しきれないほど悪い感情を積み重ねて、発散もしないで生きてきたら、精神的に病みますし、うつ状態になったりします。
トラウマ、嫌な出来事、これが人生を決定づけます
例えば人間関係でいじめや疎外を経験した人は、無意識的に人に対して身構えてしまって、人とうまくやろうと表面上頑張ろうとすればするほど、疲労困憊で心が消耗していきます。
社会人になってもパワハラに会うし、ブラック企業でこき使われ使い捨てにされます。
家庭でも、夫婦仲でストレス感じたり、親族とのいざこざや、思う通りにいかない子育てなど、人間は生きている以上、必死に悪い感情を抑圧して、それでも前を向いて生きなくてはいけません。
ひきこもって、全ての苦痛から逃れようとしても、将来のお金の不安も押し寄せてきます。
自分のために、家族のために、老後のために稼がなくてはいけないし、本当に安心した精神状態になれるのかなんて、誰もわからないままもがいていると思います。
瞑想は抑圧から自分を解き放ってくれる?
そしてある一部の人は、社会ですり減っていく自分へ危機感を持ち、瞑想をやります。
瞑想こそが、自分の心をリセットしてくれて、すべての抑圧から解放して、真の意味で自由な精神を手に入れられると思ってしまうのです。
そして、自分の心をじっと見つめます。
人生を変えるため、自分の悪しき流れを変えるため、より高次のレベルで生きられるようにするため、内面を深い掘り下げようとします。
瞑想にはその効果があるため、自分を深く知るにはうってつけです。
瞑想は毒にも薬にもなる 効果もすごいが反動もすごい
しかし、抑圧された自分を見続けることは毒なのです。
なぜ抑圧されたかと言うと、それは自分が生きる上で不都合なものだから、潜在意識の奥底に沈めておこうとした心の防衛本能だからです。
瞑想をし続けると、理性が少なくなります。
理性は防衛本能と非常に密接に組み合わされ、抑圧がダムの外に放流されることを防ごうとします。
その理性のタガが外れた場合、一気に悪い感情が押し寄せてきます。
自分の毒の感情に染まってしまったら、それまで抑圧して生きづらさを感じていた段階でとどまっていた人でも、さらに悪化し、うつ状態へと、ひどい場合うつ病になってしまいます。
瞑想をしたり、内観をしたり、自分を見つめる作業に没頭してしまったために、もう普通に戻れない最悪な精神状態に陥ってしまうのです。
瞑想の弱点、そして生きづらさを消すために薬に頼らない話
そうなると、もう再び抑圧することは難しいと思っていいです。
しかし、現状は最悪な精神状態のままです。
そこで精神科や心療内科に言って抗不安剤や抗うつ剤を医師に処方してもらうことになりますが、これも避けたほうがいいでしょう。
医師の立場から言いますが、向精神薬には非常に強烈な薬があり、中期的な服用は身も心も蝕んでいくものがあります。
向精神薬を売った利益は病院にとっても製薬会社にとっても莫大なものがあるため、安易な処方で患者さんの生活の質を中長期的に悪化させてしまうケースもあります。
薬害については今後一層議論されなくてはならないものだと個人的に思います。
瞑想の魔境、ダークサイドに陥る瞑想の騎士
さて、あんまり自分を一人で見つめすぎると、浄化されないまま、心が不安や孤独や恐怖感や焦燥感や憂鬱感に襲われ続けます。
生きることも嫌になってしまったら本末転倒です。
これを瞑想の魔境といいます。
スターウォーズ風に言えば、瞑想のダークサイドに堕ちた状態ですね。
フォースの使い手も、正義の騎士になることもあれば、ダークサイドを覗いて暗黒卿になる人もいると考えればわかりやすいです。
自分の心の浄化のための瞑想が、自分の人生の質をひどく落としてしまったら勿体ありません。
しかし、再抑圧もいまさら遅いとなりますと、徹底的に出し切って抑圧を浄化したほうがいいです。
せっかく理性のタガが外れたのだから、そのまま突っ走りましょう。
それが一番の安全策です。
瞑想の魔境を覗いた人は、前方への突破しかありません。
薬でごまかしたり、必死で抑圧しようと耐え抜くならば、最初から瞑想をしないほうがいいわけです。
瞑想を中途半端で止めることの恐怖と危険性
このブログをなぜ書こうかと思ったかといいますと、瞑想の魔境に入ってしまった人からのメッセージがきっかけです。
瞑想などで自分の抑圧された感情を覗いてしまい、あることがきっかけでネガティブな感情に飲み込まれて、普通に戻れなくなったとのことです。
とても感受性が強く、また抑圧された感情の相当強いものがあると思います。
そうなると、もう徹底的に抑圧されたネガティブな感情を解き放ち、本来自分が持っているポジティブな感情も救い出すしかありません。
この作業は、もう一人の力では難しいです。
理性のタガを解き放つまでは感受性の強い人ならばできますが、感受性が強いからこそ、ダークサイドしか拾えなくなります。
いくら瞑想をやっても、こうなるとダークサイドしか見えません。
魔境の中でもがくよりも、岩波先生(Dream Art Laboratory主催)の誘導瞑想法で、さらに深い瞑想状態に入るべきです。
これは誰でも瞬時に深い(それこそ瞑想人生最高の)意識の状態に入れます。
最高に深い瞑想状態に入れば、心の問題はすべて解決できます
あそこまで深い超瞑想状態(脳覚醒状態)に入ると、もっと深い情動から感情が湧いて出てきて、抑圧された感情を洗い流してくれます。
最初は抑圧が出てくると思いますが、ある一線を越えた頃から、スーッと心が楽になっていくでしょう。
どんな人も抑圧して普通に生きていますが、その実、抑圧の量はとんでもないものがあります。
瞑想は、ある程度の抑圧ならば、気持ちを楽にしてくれる効果を発揮してくれますが、自分がどれだけ抑圧して生きてきたか、誰にもわからないものなのです。
我慢強い人ほど、抑圧を押し潰してしまってわからなかったりするもので、そういう人が瞑想状態に入って魔境を覗いてコンディションが激落ちすることはよく見聞します。
瞑想でコンディション悪化はよくある。それを好転反応にするために
瞑想のダークサイドに陥っても別に短期的には構わないと私は思います。
しかし、ダークサイドで溺れてしまうことだけは避けましょう。
ダークサイドのその先に、本当に安楽な心地よさやまどろみを感じられるようになると、抑圧が薄らいできた証拠です。
瞑想には好転反応があります。
好転反応とは、コンディションが良くなる前の一時期に悪化してしまう反応のことです。
しかし、好転反応は後に好転することが前提です。
一時的な悪化が恒久的な悪化にならないためにも、中途半端な瞑想に終わらせないでください。
瞑想には魔境(ダークサイド)があること、同時に抑圧を解消させてくれる効果もあること、これらをよく知っておく必要があります。
そして、瞑想で生じた効果や結果、好転反応にパニックに陥らず、不安も感じず、冷静に対処してください。
理性が外れた世界に入った時、理性は使い物にならなくなります。
しかし、瞑想とはそういうものだと知っておくことが、不安や焦りの渦に飲み込まれず、次の飛躍へとつながるお守りとなるでしょう。
他記事はジャンル別目次からどうぞ

瞑想や瞑想の指導者、グル、達人について知識が豊富でも、瞑想を効果的に扱えているかと言うと話は別です。
瞑想に知識は一切必要ないですし、瞑想状態には知識では入れないことからも、邪魔になるだけです。
知識は追求すればすべてプラスに作用しますが、瞑想は知識で追求しようとするとマイナスに働きます。
頭でっかちになったら瞑想が逃げていく
瞑想状態に深く入れ、なおかつ知識が豊富になることは構わないと思いますが、瞑想状態にいつまでも入れず、瞑想の本質を体感していない代替として、瞑想の知識ばかりを追ってしまうのでは本末転倒です。
瞑想は本来、知識では追求できない次元を扱うものだからです。
つまり、瞑想について「やたら」詳しい人ほど、実は一番の恩恵に預っていないと考えていいかもしれません。
なぜならば、瞑想の効果を体感としてよく知っている人ほど、知識や理論では説明できないことを知っていますし、『考えるな、ただ感じよ』というしかないのです。
そこが瞑想の指導者が多くの人に瞑想の方法を説くときに苦慮するところです。
理性の限界を知ることで瞑想状態に深く入れる
知識は理性です。
理性を超越してこその瞑想状態ですから、理性で瞑想を捉えようとすること自体が間違いです。
感じる、ひたすら感じることのみなのです。
感じた末にあるのは、深い気づきや悟りです。
感じるということは捨てることです。
捨てなければ感じられない。
知識は変に身についたら捨てられません。
知識があるがゆえに頼ってしまい、頭でっかちになって、瞑想の本質の効果を味わえないまま、さらに無駄な知識だけが溜まっていくのです。
絶対的な瞑想状態を味わった人が発する瞑想の知識の本質がわかるのは、やはり同じく瞑想状態の極意を掴んだ人だけです。
まだ深い瞑想状態を味わえない人には本質的に理解できないところがあります。
理をはるかに超越しよう。瞑想にはそれができる
結局言いたいことは、深い瞑想状態に入れば、あとからいくらでも知識はついてくるし、深い瞑想状態に入れないままだったら、いくら瞑想をし続けても徒労に終わってしまうということです。
求めて得られる知識は大したことはなく、求めずして知識を捨てたときにやってくる深い瞑想状態でつかんだ『知識』こそが最高の宇宙の叡智となるのです。

瞑想状態は確かにあります。
その効果は絶大なものがあり、理性や様々なしがらみでがんじがらめにさせられている私たちの心を無意識から解放してくれますし、脳も覚醒していきます。
しかし、瞑想状態に入れたからといって、その瞑想状態が願望を達成させるために充分な深さなのか疑うことが大事です。
というのも、瞑想状態はあくまで主観です。
私がこの瞑想や精神世界を中心に書いているブログや体験談をいくら体感したまま書いているとしても(実際に嘘はまったくない体感です)、どれだけのすごさや別次元ぶりなのか読んでいる人にとってピンとこないことも事実です。
主観というものはとっても厄介で、瞑想や精神世界の話をする時にどうしても体験したものをそのまま読み手にわかってもらうことは不可能なことなのです。
しかし、その人の主観の中で、絶対的な体感、決定的な体感、あるいは悟りや決定的な気づきと発見に本当に至ったのならば、誰がなんと言おうとそれは真理です。
つまり、決定的、絶対的な体感が伴わない瞑想状態はさほど価値はありません。
瞑想状態はとても幅広い意味で言われていて、ウトウトした状態も瞑想状態に含まれることもありますし、海辺でぼーっと何も考えていない時間を過ごしているのも瞑想状態と言えるかも知れません。
ちょっと感覚がずれてきた状態も瞑想状態ですし、ストレスがすべて抜け出ていく効果を味わう状態も瞑想の醍醐味です。
それらはすべて価値のある体感ですし、効果があるわけですが、そこに決定的な絶対的な体感はありません。
せいぜいここ二、三日の疲れが吹っ飛んでいったという効果しかないのです(ストレスで潰れるより何億倍もマシなのですが)。
せっかく精神世界に足を踏み入れ、瞑想や座禅を一生懸命取り組んでいるのならば、決定的絶対的体感まで至りましょう。
一生を通して、確固とした核となる強さと優しさと柔らかさと自信とリラックス、それらすべてバランスよく得られることになります。
だから今の瞑想は本物なのか、瞑想を疑って下さい。
案外、次元の低い位置で瞑想のようなものをし続けているだけかもしれません。
瞑想を疑い、瞑想を捨てるぐらいをした方が、もっと深い次元の瞑想状態を味わえるようになるのです。
捨てられない人間はいつまで経っても拾えません。

しかし、働かなければお金はもらえないし、本当に生きることは苦行なところもあります。
ストレスフルな報われない状況の中、いかに私たちは健康的に生産的に生きられるかが大きな課題です。
しかし、日本の労働生産性は高いものではありません。
産業医もカウンセラーも自分の人生まで責任を持ってはくれないのですから。
瞑想の効果は多くの人が語っているように、保証付きで素晴らしいものがあります。
脳がクリアになり、体が軽くなり、インスピレーションが湧いて出てきますし、モチベーションも無理やりではない自然な形で発生します。
集中力が増し、気持ちに余裕が出てきて、気持ちもいい。
過去から現在まで囚われてきた悩みも小さいものに感じられ、未来への不安も薄らいでいきます。
つまり、とても生きやすい精神状態にいつでも変えることができるのです。
瞑想の効果をたくさん書いているブログやSNSサイトは数多のようにありますが、それは理想の姿であり、現実の瞑想の難しさも同時に知っておかなくてはいけないと私は思っています。
それを乗り越えれば、それこそ自分が思っている以上の劇的な効果を得られるようになることは約束していいです。
瞑想は、瞑想をやるという前提で、すでに「効果を追い求める」行為と思考が発生しています。
それはまったく構いません。
気負いが生まれ、次第にうまくいかない場合の焦りが生じ、空回りします。
それがストレスになってしまったら本末転倒ですから。
あるがまま、が理想です。
どうにでもなれ、どうにでもしてくれ、という心境です。
ビギナーズラックで最初はうまくいく人もいます。
それで瞑想や精神世界にはまっていくのですが、最初、無の気持ちでてきたとしても、次からは雑念や助平心ありありでやるようになるのが人間なのです。
どんなに人間関係でストレスを感じても、理不尽な立場に立たされても、ノルマを課されてギリギリの精神状態になったとしても、それらが小さく感じていくようになります。
そう思えるのだから、余裕を持って対処でき、問題を乗り越えられる精神力と柔軟性を脳が持てるようになるのです。
この産業医の友人も医師の仕事の激務で精神的にも肉体的にも疲労困憊になっていた時に、トランス呼吸法を使い立ち直ることができた人ですので、経験値の厚みが違います。
だから、相談に来られる方に心のこもったアドバイスと信頼を与えることができているのだと思います。
瞑想はすばらしい効果を発揮してくれますが、瞑想がうまくいく秘訣を知って下さい。

潜在意識と脳に瞑想は栄養を運んでくれる
私達が生きているのは栄養を体内に取り込んでいるからです。
この飽食の時代、栄養過多で逆に人は病んでいる皮肉な時代を私達は生きています。
当然、脳にも当たり前のように栄養は届いて、まともに私達は考え感じることができているわけです。
ただし岩波先生の脳覚醒プログラム(脳覚醒瞑想)ではちょっと違っています。
より深く超瞑想状態を味わうためには、お腹を満杯にして参加しないように言われてましたが、ハングリーな方が脳がより深く作動するようです。
実際にお腹がパンパンの時と、朝から食事を取らず昼飯も取らずに参加した時とでは、はっきりとした深さの質の差が感じられました。
とはいってもプログラム参加前に食事を取らないほうがいいわけであって、栄養は結局は大事なものです。
要はハングリーなギラギラした精神状態のほうが、短期的に大きな力を出せるわけです。
脳に栄養を与える、どちらにしても必要なことでしょう。
ここから本題に入りましょう。
脳への栄養と言っても、何も栄養学の範疇で言われている一般的概念の栄養だけではありません。
人間には『心』があります。
幸福感、愛、一体感などは、まさに脳に最高の栄養を与えてくれるものです。
しかし愛や幸せや感動を感じられない脳は病んでいきます。
脳内ホルモンバランスが崩れ、理由なき倦怠感、イライラ感、不安感、恐怖感、焦燥感、抑うつ感に苛まれ、食事や漢方でいくら脳に栄養を与えても、焼け石に水になってしまうのです。
これが常態化するとうつ病になり、日常生活もままならなく、毎日が死にたい感情におそわれ、ますます脳に精神的栄養が行き届かなくなる最悪の流れに入っていくのです。
瞑想をやる多くの割合で、うつ病までいかなくとも、この脳に精神的栄養が届いていないことに何処かで感じている人が占めていると思います。
いつの間にか人生が思い通りにいかず、脳力もなかなか発揮できず、妙に重いものを抱えて生きざるを得なくなり、こんなはずではなかったという人が瞑想に救いを求めている現実があります。
そして瞑想が、脳に栄養を与えられる方法なのです。
瞑想がうまくハマった時の安らぎ、あるいは高揚感、あるいは一体感、あるいは宇宙的体感などは、確実に脳に栄養を与えてくれます。
このストレスだらけの世知辛い世の中で疲弊している脳に、極上の栄養を補充してくれるのです。
ただし、瞑想はそう甘くはありません。
うまくことが進むなどほとんどないのです。
逆にうまく進んだからこそ、不安とあせりと恐怖に苦しめられてしまう危険性もあります。
さらにやれば、それらの悪い感情も抜け出ていってくれますが、やれば瞑想が深まるものでもないため、悪い感情を味わっただけに終わる可能性もあります。
しかし、瞑想の可能性(脳への栄養補充)を知っているからこそ、効果が少ししか感じられなくてもやり続けてしまうのです。
問題は脳に栄養を十分に与えらえるかということです。
これがなかなか難しく、瞑想で心が安らいだとしても、辛く苦しい現実社会ですぐその効果などすり減っていくわけで、これも焼け石に水となってしまうでしょう。
そこで覚醒瞑想状態の出番です(私が以前から超瞑想状態と言ってきたものです)。
まず100倍、いや信じられないでしょうが、実際の感覚で1000倍も瞑想がうまくいった時の幸福感や愛に包まれた感覚を味わえます。
その時の感動といったら言葉にできませんし、文章にすること自体野暮なくらいです。
それだけで日常の疲れもすべて吹っ飛ぶぐらいの脳への精神的栄養が補充されますが、さらにものすごく感覚が深い中での最高のリラックス状態、まどろみ状態がしばらく続きます。
インパクトプラス余韻の長さを味わうことで、疲れもストレスも日々の悩みも未来への不安も全部なくなった安心しきった世界に身を置けるのです。
まさに無の世界でありながら、しっかりと異常に心地良い感覚を得られるのです。
そして、モチベーションの急激な上昇と、「私はなんでもできる、私しか成し得ないことがある、それをやれるのだ、できる!」といったような絶対感がむくむくと湧いてきます。
幸福感だけじゃなく、野心や夢といった前向きに走るための栄養も覚醒瞑想で補充できるのです。
これでは脳に悪いわけがないのです!
最近、精神的栄養を脳に与えていますか?
逆に、悪いストレスや抑圧しか与えたまま生きていませんか?

なぜ人は瞑想をやるのか?
なぜ私は瞑想に興味を持ち、瞑想に執着してやり続けてきたのだろう?ふと、時間ができた時考えたことがありました。
おそらく私は自分の能力のこれっぽっちも使ってはいないのではないか?
こう思い至りました。
だからこそ、私の眠れる潜在能力を知りたくて瞑想に関心をもつようになったのだろう、と。
幸い医師という希望の職業につくことができました。
金銭的にも余裕が無いわけではありません。
老後の心配もあんまりしていません。
そういう意味では、それなりに恵まれた人生かもしれません。
が、満足かと入ったら満足でもありません。
人生をそこそこ楽しんでいたと言えますが、もっと「何かあるだろう、あるはずだ」とどこかで感じながら生きています。
もっと自分の眠る潜在能力を発揮できるはず
私にもコンプレックスはたくさんあります。人間関係のしがらみにも縛られて生きています。
自分だけじゃなく家族のことについての悩みもあります。
仕事ももっと何かできるはずだと思っています。
時々マンネリ化していないか、惰性に陥っていないかと不安になったりもします。
このまま無駄に時が過ぎていくことへの恐怖感もあります。
すぐに時間は過ぎ去っていて、私は何も成し遂げていないという焦りも出てきたりしました。
本当に私は自分の人生を生きているのだろうか?
一度の人生をこのまま無難に生きていて後悔をしないのだろうか?
虚しさをいずれは感じないだろうか?
満ち足りているのかもしれないが何かが足りない
禅の教えの1つに「あなたが今満ち足りていることを知りなさい」という言葉があります。そう考えれば私は満ち足りていて幸せなのだろう、とも思います。
散歩の時、道端に咲く花を見て、ふと心が和んだ時、「ああ、幸せだな」と思うことだってあります。
しかし!
何かが足りないのです。足りなかったのです。
もっと私の情動と魂を全開にして生きなくてはいけないのだろうと。
瞑想をやっている分際で、禅の教えから外れることは大変おかしいですが、半人前なのだからまあしょうがない(笑)
しかし、私がまだあまりやり遂げていないことを追求しないことは、私の生命への冒涜なのではないか?
やらない後悔よりもやって後悔した方がいいに決まっている。
その結果私が「満ち足りていることを知る」事ができればいいと思っています。
まだまだその時ではないということです。
何も瞑想は禅だけの専売特許でもありませんし。
私の潜在意識に眠っているもの、そして潜在能力
たしかに私の中にはなにか可能性が埋まっている。しかしどうやってその可能性を引っ張り出せばいいか術がない。
いや、ある。それは瞑想だと期待しました(しかし、そう甘くはなかったのですが)。
私が瞑想をやるのはただの気休めではなく、生きる意味とつながっている、と改めて気付かされました。
私の脳みその何かが作動すれば怖いものはもうない、不安になることも何もないと信じています。
私の追求は終わりません。
みなさんも、このまま人生が続いていっていいのかという不安を持っていると思います。
果たして満ち足りた人生だと本当に思えるのかというと、断言できない人が圧倒的に多いでしょう。
従来の瞑想法では心を満足させるには弱いと思う
しかし、私は瞑想がそれを救ってくれるほど甘くはないと思います。人生がうまくいかないのと同じように、瞑想はもっと難しいものかもしれません。
だからこそ、心が惹かれてしまうのですが、瞑想の罠にはまって人生に迷いを増やすことだけはしないようにしてください。
そのために私のブログがお役に立つことができたら幸いと思います。
シュウ

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